深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義6. 球磨先人の知恵と偉業

6-9. 人吉球磨地方の講金(こうぎん)

1) 講金(こうぎん)や頼母子講(たのもしこう)とエンブリーさん

 沖縄や鹿児島県の奄美群島では模合(もあい)だが、宮崎でも、鹿児島でも、全国的に「頼母子講:たのもしこう」という呼び方をされていて、今も人吉球磨地方で続いているのは「こうぎん:講金」と呼ばれている。講金と頼母子講はほぼ同じ仕組みであり、同じ目的で行われている。人吉球磨地方でも、以前は「頼母子講」と呼ばれていた地域もある。たとえば、当時の須恵村に滞在し、日本の農村を研究調査されたアメリカの人類学者、ジョン・F・エンブリー博士の著書、「Sue Mura, A Japanese Village」、和訳名「日本の村落:須恵村」には、この地域の「頼母子講」の詳細が記載されている。また、湯前下村婦人会市房漬加工組合の「市房漬」は「頼母子講」がその活動母体であった。

 講金(こうぎん)とは、信頼のおける仲間同士が、定期的に集まり、お金を出し合い、順番にまとまった金額を手に入れる仕組みである。必要な時、金融機関に頼らず、利息もなしで、まとまったお金を手にすることができるといった経済的な面と、会員(講員)同士の親睦交流を図ることが講金の大きな目的となっている。信頼のおける仲間は、同級生同士、親戚(子や兄弟、いとこ同士)、職場や地域の仲間同士などである。「隠れ信仰」と講金との関りを述べる前に、いま、八代や人吉・球磨地方で行われて講金の具体的なやり方の幾つかを紹介しよう。

 (1)構成メンバーは同級生の11名であり、毎月開催する。持ち寄るお金は14,000円である。そのうち8,000円が受け取り人のお金で、11名だと受取人の額は8万円(本人分も含めると8万8千円)になる。3,000円を積立金とし、3,000円を懇親のための会食経費にあてる。講金の受け取りは、順番か希望によって決める。積立金は貯金し、利息は旅行などの親睦会費に充当するとのことである。

 (2)同じ岡原地区で行われている「いとこ会」による講金では、持ち寄るお金を払う仕組みだそうである。ただ、高齢化によって飲める人少なくなってきたので懇親の意味も小さくなり、区切りのいいところで終わりにすることになっているとのことである。

 (3)地元の農業友人同士でやっている講金は、2ヶ月に1回の集まり、お金は10,000円程度を出し合い、受取人を決めるのでなく、飲食代以外を積み立てて年1回の旅行代金にするとのことである。

 (4)人吉で行われている講金の例を「おてもやん」さんのプログから紹介すると、次のような方法と内容である。開催日は、偶数月の第2土曜日の午後7時から行い、メンバーは羊年と猿年生まれの同年代の11名で構成している。来年で30年目になるとのことである。持ち寄るお金は、10,000円の講金代と3,500円の食事代である。受け取りは希望順で、額は自分のものも含めると110,000円になる。講金の集まりでは食事の他にボーリングをしたりしているが、今後は福祉などのボランティア活動も視野に入れた集まりを目指しているとのことである。

 (5)八代市鏡町の文政小学校同級生による「文政講金」の月例会が開催され、積立金は遠征登山経費に充てると、宇城市の「しらぬいのがね」さんのプログにあった。

 (6)筆者の友人の話では、昔(40~50年前)の講金は、一巡するまで20年を要するほど規模も大きく、中には講金で家を建てた人があるとのとのことである。

 このように、現代も続いている講金は、お金を持ち寄るのであるが、昭和30年代位までの講金は、お金の代わりに米などを持ち寄り、それを売って資金源にしたり、労働力を提供したりすることもあったようである。労働力を提供しあういわゆる「もやい仕事」については後述する。

 先ほど紹介した昭和10年(1935年)頃、日本の農村を調査研究されたジョン・F・エンブリー博士の著書「Sue Mura, A Japanese Village」や元熊本商大の牛島 盛光教授の著書「変貌する須恵村」によると、当時の須恵村や球磨地方で盛んに行われていた「講」のことが詳しく述べられている。
その中から、今では想定できない講、「雨講」をエンブリーさんは紹介している。「雨講」は「傘掛け」とも呼ばれ、免田の雨傘屋 によって始められ、通常的には集落の仕事の一部分として行われていた。この講は、毎月の寄合だと各人はその傘屋に50銭を出し、隔月ならば1円を出す。幸運の札を勝ち得た者は傘屋から4~5本の雨傘を受けとる仕組みになっていた。 ところで、「免田の雨傘屋」さんとは、免田のどの辺りで、今はどうなっているのだろうか。
あさぎり町の山口 和幸さんに調べてもらった。それによると、一つは、あさぎり町免田東本町の青木屋旅館の傘修繕屋ではないかとのこと。もう一つは、現在の南稜高校東側の千蔵に傘屋さんがあり、ここは修繕だけではなく製造販売もしていたとのことである。青木屋旅館は現在もあるが、傘の修理はやっていない。千蔵の傘屋さんは、もちろん現在は廃業されているが、往時の農作業は雨が降れば蓑笠(みのかさ)であるが、番傘(唐傘)の製造販売所はあったのである。したがって、講金で傘を買うのであるから、エンブリーさんの「須恵村」に出てくる「免田の傘屋」さんは、千蔵の傘屋さんだったと思われる。ただ、「千蔵」は免田と上北地区の境界付近であり、正確には免田ではない。

 「雨講」に類似したものに「靴講」がある。くじに当たった者はその金で靴を買うのである。学校へ行くのも草履や下駄の時代、筆者は、岡原から水上村の猫寺まで、距離にして8キロを下駄履いて遠足した思い出がある。靴は子供にとっても大人にとっても憧れの履物であったことがわかる。
「畜産講」というものもあって、お金を手にした人は元気な若い牛馬を買うとか、これまでの家畜をいいものに取り替えるために使うのである。しかし、いずれ講も懇親を目的としたものであったという。この他にも、この地方には、馬車講、養蚕講、屋根葺講、伊勢講、観音講、婦人講、布団講等もあったことを紹介していて、この地方がいかに助け合い、協調し合って生活していたかが分かる。

 講金や頼母子講、及びもやいの仕組みを具体的にまとめておくとこうである。
まずは講だが、講元とか座元と呼ばれる主宰者が信用のおける仲間を集めて始める。仮に、毎月5万円ずつ持ち寄る仲間が10名集まってスタートしたとすると、毎月合計50万円が持ち寄られ、仲間の1人がそれを受け取る。積立は毎月行われ、その都度、誰かが60万円を受け取っていき、10か月後に全員が60万円を受け取って終了することになる。しかし、親睦交流も目的としているから一巡で終わることはまれで、継続されことが多い。このシステムでは損も得もないが金融機関から借りるとなると利息を払わなければならないがその必要はない。ないばかりか、生活地域からお金が他所へ出ていくことを防ぐ役目もあり、積立金を預貯金しておけば利子利息も生じることになる。このシステムが営利目的でなければ法的には問題ない。営利目的の場合は相互銀行法と無尽業法で規制されている。

 鹿児島国際大学の中野 哲二先生の報告(鹿児島経済論集第44巻 第3号2004年)によると、昭和30年の「講」調査によると、65%の農村に各種の講が存在し、「講」が単なる宗教や金融面だけのためではなく共同体の共存策としての知恵だったと筆者は考える。


2). 「講」と「かたい」・「もやい仕事」

 利子も利息も払う必要がなく、抵当権も担保物件も必要なく、欲しい 時に、まとまったお金を手にすることが出来、返済は月賦や分割払いですませることができる。こんな巧妙な金融システム、相互扶助システムは、いつ、誰が考えついたのだろうか。その歴史をさぐると、これがまた、先に述べた禁教の隠れ信仰組織「仏飯講」が発端だったことも明らかになった。以下、その詳細である。

 「講」とは、本来、仏教の講話を聞くために集る人たちの集会のことである。しかし、信仰とは無関係の同志的結社、村落社会における結合の単位として存在するようになり、その機能も本来の宗教的なものと経済的なものに収束していき、今日でも継続している講は親睦交流の場ともなっている。宗教的なものというのは、鹿児島県の「田の神講:たのかんこ」とか、先に述べた庚申信仰に基づく「庚申講(こうしんこう)」などであるが、特定の神社仏閣を参拝するための講(代参講)、すなはち「伊勢講」とか「金比羅講」とか「善光寺講」などがそうである。お伊勢参り(お陰参り)は、当時、庶民の最も強い憧れであり、一生に一度の贅沢願望であった。須恵村の伊勢講と神事についてエンブリーさんは次のように紹介している。

 観音講のメンバーと異なり、伊勢講は上組の9戸と下組の13戸に分かれ、5月16日と9月16日の年2回行っている。講の当日には、座主の家の床の間に天照大神宮の掛軸が掛けられる。一方、「ぬしどり」は、あらかじめ各戸から徴集してあった講費100円の中から焼酎、肴(さかな)、菓子、ローソク等を準備する。座主の家に揃ったところで、神主が祝詞をとなえる。そのあと神酒をいただくだけで神事は終わり、簡単な飲み方があって散会する。ちなみに当時、昭和10年(1935年)頃の物価は、大卒の初任給が約100円であるから、講費100円は相当な高額である。「ぬしどり」とは、講のリーダーであり総責任者のことである。

 筆者の祖母は、お伊勢参りしたことをいつも得意げに話していた。時期は、肥薩線が開通して10年後位の頃であるから、行くのも大変だっただろうが、何よりお金である。そのお金の出どころが「伊勢講」であった。お金を出し合い、受け取ったものが代表して「お伊勢参り」に出かける代参である。この仕組みで講員のすべてが、いずれお伊勢参りできることになる。

 人吉球磨地方の講金は「仏飯講(ぶっぱんこう)」にそのルーツがある。以前にも述べたように、薩摩や相良藩では、浄土真宗などの真宗が禁制であった。禁制の中でひそかに浄土真宗を信仰していた人々の救いが仏飯講であった。仏飯講の「仏飯」は仏前に備えるご飯であり、ご飯を盛る器が「仏飯器」である。取り締まり圧政下で、お供えした仏飯のお下がりを皆で分かち合い飢えをしのいだという言い伝えから信仰集団の名が仏飯講になり、しばしば一揆など権力者に対する反抗基盤となっていた。

 明治初年までは薩摩藩だった宮崎県の西諸県・北諸県地方や鹿児島県の北薩地方では「内場仏飯講」が知られているが、人吉球磨地方では「山田村の伝助さんと仏飯講」が有名である。
山田村とは、現在の球磨郡山江村の山田地区であり、明治22年(1889年)山田村と万江村が合併して山江村となった。その山田村に伝助さんがいて、この方は、講の重要な世話役は以前にも紹介したように「毛坊主」と呼ばれる人で、禁教令下にあって命をかけて真宗信仰を守った人である。伝助さんの活動母体が「仏飯講」という地下組織の秘密結社であった。しかし、伝助さんや隠れ信者も捉えられ処刑され、いま、山江村の合戦峰(かしのみね)に殉教者や伝助さんの墓供養碑が残されている。また、山江村山田の民家墓地には、伝助の初代、二代、三代の墓があり、位牌は本願寺人吉別院(浄土真宗本願寺派)に預けられているとのことである。

 経済的なものというのは、先に例示したよう金融の相互扶助であり、同じ目的の「頼母子講:たのもしこう」や「無尽講:むじんこう」がある。沖縄や奄美地方では模合(もあい)といい、頼母子講(たのもしこう)は鎌倉時代に発生したとされている。

 エンブリーさん(ジョン.F.エンブリー John.F.Embree、1908-1950)が調査した昭和10年(1935年)頃の須恵村は285世帯、1663人であり、面積でも熊本県下7番目の小さな村であった。こんな小さな山奥の田舎がどうしてエンブリー夫妻の調査地に選ばれたのであろうか。
民俗学者柳田 国男氏の紹介との説もあるが、規模がフィールドワークに適当で、村人たちがオープンで親切だったことが、この村を調査地に定めた最大の理由だったそうである。 エンブリーさんが、その著書「須恵村」のなかで、須恵村やその近隣地区の良さは協調・共同・相互扶助の精神の地であり、「はじあい」とか「かったり」に代表されているという。「はじあい」は、実際はハジャーに近い発音だそうで、「地域連帯でお互いに助け合い、寄り合う」という意味の須恵地方の方言であるが、ほとんどの人は知らないという。「かったり」は労働作業を貸し借りすることであり、地域によっては「もやい」とか「かたい」「かちゃ」といい、昔の田植えは「もやい仕事」であった。

 筆者が子供の頃は我が家も「かたい」で「もやい仕事」の田植えをしていた。加勢(かせい:手伝うこと)を依頼するのは、大体、親戚縁者である。例えば、Aさん宅が二人、Bさん宅からは三人が我が家に加勢に来てくれたとする。Aさんが田植えするときは当然我が家からも二人が出て加勢するのである。Bさん宅からは3人の加勢があったけれども、我が家からのお返しは二人しか出来なかったとき、我が家はBさんに一人分の労力の借りができることになる。しかし、親戚同士での「かたい」は、少しぐらい差ができても目くじらを立てなかったが、借り側にとっては、そのことが過労につながる場合が多々あった。 もっとややこしいのは、Cさんが田植えの準備作業に、馬を連れて加勢してくれた場合である。馬、農耕馬がいなければ耕すこともならすことも出来なかった時代である。馬連れの加勢は、同じようなお返しをしなければ「かたい」にならない。しかし、馬なしのお返しの場合も出てくる。特に、親戚縁者でない場合、馬連れ加勢は日当が高いのである。馬ではなく馬を使う男の人の日当が高いのである。馬を使う男性日当は人間だけの場合の3倍であり、一般の人は沢庵のおかずであっても、馬を使って代掻きをする男性の昼食には生卵がつくなど、別待遇であった。

        
↑ 戻る 

談義6-8へ | 目次 | 談義6-10へ